「9月もう終わりじゃん」
って言ってたらほんとに秒で9月が終わりました、朝からポテチです。
9月のブログの更新が思うように進まない。手をこまねいているところで、なんとかこのブログを書き起こしました(9月30日12:27分現在)。
“何も成せていない”という虚無感
今自分を襲っているのは猛烈な“何も成せていない”感覚。非常にまずい。いや何かはしてただろ。なにもやってないなんてことはない、はず、なんだ、何かはやってた、はず、何やってた?思い出せない。今思い出せなかったら永遠に思い出せない、何かはやってたろ、思い出せ、自分を鼓舞しろ、そのためのブログだろ、そのための?なの?あれ?なんでブログやってたんだっけ…?そうだ、何のためにブログを続けているのか、今一度問い直す必要があるんじゃないのか?
ブログは手段か目的か
今自分に問う、ブログを書くことそのものが目的となってやいまいか?違うだろう。ブログという手段を使って、日々の時間や思うところを切り取って、自分の中で明確に言語化して整理する、そのためのブログだ。そのはずだった。今の目的はなんだ?ブログを1ヶ月に4回以上更新することか?確かに、これまで半年以上続けてきた更新ペースを崩せば、それまで取り組んでいた習慣が崩れてしまうだろう。一度崩れてしまうと、なかなか立ち直ることは難しい。このブログはその習慣を繋ぎ止めるための一時しのぎが目的だと、白状してしまえばその通りなのだ。しかし、今このブログを書いている中で、自分は真の目的を取り戻した、「更新頻度を落としたくない」という気持ちはとっかかりにすぎない。真に重要たる目的、私がブログを書き始めた理由を思い出した。
ブログを続ける理由、書き留めたい思い
私がブログを始めたきっかけはなんだ。
きっかけはそうだ、昨年12月のAdvent Calendarへの参加だ。伝えたい気持ちばかりが先行し、何も思い浮かばなかった三週間の焦りは今でも思い出せる。あの時は期日までになんとか完成したことがとても嬉しかったが、今読むとあまりこれといった中身もなく、よくあの時、優しい方たちに反応して貰えたもんだと、情けない気持ちにもなる。
https://twitter.com/nchas3821/status/1370727499731148804
では今一度問う、ブログを続けたい理由はなんだ、なんで書き続けているんだ。
惰性か?いや違う、一度立ち止まって考える。そうだ、私がブログを書く理由。
今この感動の熱が冷めやらぬうちに、この気持ちを留めたいから。
いつか振り返った時に、この熱を思い出したいから。
私がイベントのレポートを書き起す時の熱意がそうだ。いつもイベントの帰りの高速バスでは無我夢中で言葉を紡ぐ。なるべく間違いのないよう、ただし客観的事実をつらつらと並べるだけでなく、自分がそこで感じた感情、感動、会場の雰囲気までも忘れ得ぬうちに詳細に書き留める。そうして日が変わる前にできあがったブログは、毎回荒削りながら、多くの人が観てくれているように感じる。私の原点であり、今もなおこの活動を継続する理由のひとつだ。
では今はどうだろう、9月はどうだったか、実は自分がよく分かっているのではないか
最近置きにいってないか?
9月に書き起こしたブログの下書きを見てみる
どれもこれも映画の感想や作品の感想、それもTwitterの文章の貼り付けを書き留めたものばかり。
自分でも思う、これは“置きに行っている”ブログだ。
まるで熱量を感じられない、誰かに伝えたい、届けたい!という思いが伝わらないものばかり。どれも独りよがりで、自分の気持ちをただ備忘録程度に留めているだけだ。
そんなんじゃつまんないだろ!!!
そう、つまんないのだ、自分でも進まない、一向に完成しない、下書きのままの理由。それは“置きに行っているブログはつまらない”からだ。自分が忘れないようにという気持ちばかりが先行している。それを誰かに伝えたいという熱量が全くないからだ。
私自身、興味を惹かれる方のブログというのは、どれもその人自身の言葉でもって書き殴られているモノばかりである。走るような熱い想いから産まれた抑えられない感情。その気持ちに最も近しい言葉を慎重に紡ぐ。自身の気持ちを100%正確に伝えられる言葉というのはなかなか見つからないものだが、それでも苦悩した分だけ言葉に載っかる気持ちというのはそれだけ重く伝わる。
私が書きたいのはそんなブログだ、Twitterの感想を貼り付けただけのようなつまんないメモなんかではないのだ。そう、書きたいものがある、伝えたい想いがある、自分の中では収まりきらない熱意を、自分の言葉で綴るために、このブログを続けているのだ。誰かの言葉のRTでは、代替できやしないのだ。
誰の為に書いてんだ
誰かに伝えたい、届けたい、その気持ちは大いに結構だ、だが、自分のブログを一番読むのって誰だ?
それは自分だ。
ブログが伸びるいちばんの要因、それは続けること。
継続は力であり、実績であり、年輪だ。積み重ねた分だけ、実力も伴うし、それは偉業となる。
では100、1000と記事を書いたとき、一人でも多くの人に届いたとて、自分の全てを知り、理解してくれる人はひとりでも現れるだろうか?
否、自分のブログをいちばん読むのは自分だし、自分の言葉を、思いをいちばん知りたいのは自分だ。多くの反応が得られたとして、喉元を過ぎてしまえば、あの一瞬の満たされる感覚は消えゆくし、例えその数字がどれだけ多く集まったとして、100集まっても1000集まっても、満たせる器の大きさは同じで、得られる満足感も同じだ。1つのいいねと比べた時、100のいいねで100倍の幸福度が得られる訳では無いのだ。それでいて承認欲求のステージは不可逆的だ。一度満たされた器の大きさは小さくなることはない。それらが満たされ続けることは決してない。
だからブログを続けるにあたって閲覧数や感想を糧に続けることはとても健康的なことかだが、それが目的になってしまっては本末転倒なのだ。
我思う故に我あり
伝えたい思いがあり、言葉があり、それが結実してブログになる。後ろ向きな気持ちや雰囲気への対抗意識から産まれる熱意。それらを前向きに押し上げる熱い感情だったり、込み上げる言葉を必死に紡いで固めて伝える。"自分がやらなきゃ”という熱意を焚べないと、言葉は産まれない。言葉が結実した時点で目的の8割は達成されている。それが誰かの目に止まろうが止まらなかろうが、私自身が、結実した言葉を観測している。認識している。だから私は書き続ける。誰かに観測してもらえなければ、認識されなければそこにいないことと同じであるなどと、SNS社会における存在論を語るなら、それすらも言葉にする。誰かの認識の隅に割り込めるかどうかはわからない。だが、私が紡いだ言葉の全てを認識するのはこの世で他に一人もいない、私自身なのだ。我思う故に我あり。それこそが答えだ。
ブログというものはわたしが私であることを認識するための反芻作業であり、人格の形成と更新を重ねていく、人生をかけて作っていく大理石像のようなものなのだと思う。ブログを書きたいと思えるような作品に出会えることが嬉しい。心動かされるほど熱意を持って視聴できることが嬉しい。この気持ちを書こう!残そう!と過ごす時間は無心になれるし、完成したらもっと楽しい。自身の超大作を何度も読み返しては悦に浸る。そうしてまた書き続ける。人生がとても豊かになり、充実する。
おわりに #とはいえ
とはいえ、コメントのひとつでも死ぬほど泣いて喜ぶくらい、ブログの感想があると嬉しい。(それはそう)
感想はいつだって欲しいし、自分も人の言葉に感銘を受けたら、それを言葉にして伝えることを心がけよう。そうしよう。
10月はシナプストーリーにななみりばーすでー、ゾンビランドサガリベンジライブ、セリコソロと、今から楽しみがいっぱいである。9月に始めたお絵描きも、10月もたくさんやろう、楽しみ。
あ
(9月のブログが虚無ってたの、お絵描きに熱中してたからなのでは)
(おわり)