「推しが炎上した。」
短く強烈なインパクトから始まる本作『推し、燃ゆ』は、現代を必死に生き抜く一人の女子高生の孤独な独白を書き連ねた小説だ。
「みんなが大絶賛!」してるみたいな評判は知っていたのだが、…
なんでサブカルオタクの純文学みたいな本が売れてんねん、文字でっか。児童書のサイズか。なんでこれがオタクじゃない一般層に刺さってるんだろうか、自分には刺さらなそうだ…と食わず嫌いしていた。
しかし、2021年6月。私の推しであるavex所属の音楽アーティスト、声優ユニットであるRun Girls, Run!のセンター林鼓子氏(19)が配信にて絶賛していたのだ。概略を調べてみると、どうにも推しそのものより主人公ちゃんがやるせない、らしい。虐待でも受けてて現実が辛いんかな?など想像しつつ、イベントの帰りにまとまった時間が取れたので思い立って購入。およそ120〜130ページのボリュームなので、2時間ちょっとの特急電車の帰り道にイッキに読み終えてしまった。
なんと……しんどかった。
誤解を恐れずに言えば、この本はざっくり話すと「発達障害を抱える人の生きづらさ」を描いていたのだ。
しかし、文中に「発達障害」という単語は出てこない。そうした診断を受ける描写もなければ、本人にその自覚は恐らく────、ない。
私たちがこの独白を盗み覗き、(あぁ、かわいそうだなぁ)なんて思っているわけである、がしかし、他人事ではないのだ。とても他人事とは思えないのだ。なぜなら私は、いや、この本を手に取った多くの人たち、この記事を覗きにきたあなたは、この子と同じく、推しに縋っている、推しを“背骨”にし、その背骨以外を削ぎ落とすことを生きがいに幸福を感じているからだ。自分の人生では描けない夢、向上心、その願いを預け、支えることに“役割”と“居場所”を感じているからだ。
そんな私がこの本を手に取りどう感じたか、自分を重ねたか、つらつらと言葉が続く限り綴ろうと思う。
驚いたことに、この本の感想を林鼓子氏におたよりで伝えたら、この本の感想を、「推しとオタク」という視点で述べてくれたのだ。その言葉は真理そのもので、私が描く理想そのものだった。本記事では、本書で描かれた「発達障害」「推しとオタク」のうち、「推しとオタク」について語りたい。(発達障害についてはまた別で書き殴る予定)
感想
推し、燃ゆってみる。どきどき。 pic.twitter.com/PtYW6E5wDm
主人公はブログを欠かさず更新することで、自分の立ち位置、役割、居場所をSNS上に獲得している。
まずこの時点で自分と重ねてしまう。この半年ブログの更新を続けたおかげで、会う方に「今一番熱量があるよ」などと声を掛けていただくなどしていることを思い出す。それがたまらなく嬉しかったりする。推しから貰う認知と同じくらい、自分のことを知っている人がいる、求められている=居場所意識、帰属意識を感じることは、人生において得られる達成感のひとつだ。(そのブログを書き続ける意味と問いについては少し思う所があるのでまた別で整理する予定)以下感想続き。
さらにこの子、読み進めると主人公が発達障害であるがゆえに生きづらさを感じている描写が続く。そういう話か〜と分かる。推しが炎上したツラさなんかより主人公ちゃんの人生が辛すぎて目も当てられない。しかし、他人事ではない。同じように思い当たる節が自分にもある。自分もそこに向かって堕ちてる真っ最中だと思うと、虚しくなってくる…。この本、推しが炎上した哀しさよりも普通にオタク(兼発達障害の)社会不適合っぷりがまざまざと(まさにまざま座と)突きつけられてて、つらい。
「何もしないでいることが何かをするよりつらいということが、あるのだと思う。」
あるなぁ。休日、何もしないでいると死んでしまいそうになる。わかる。
「なぜあたしは普通に、生活できないのだろう。人間の最低限度の生活が、ままならないのだろう。」
生きづらさへの共感。この物語が社会に受容されている、ということは、「私はマイノリティだ」と感じている人たちこそがマジョリティになったのだろうか…?「これは自分のことだ!」と受容できるわけなんだけど、じゃあ他の人もみんなそうなのだろうか?発達障害についてはまた別で感想をまとめるとして、この本を読んだ感想をぐっと詰め込んで、推しに直接聞いてみた。
驚いたことに、返事がかえってきた。
<#らんがちゃん
今月のらんがちゃんねる出張版05ですが#厚木那奈美 :ジャミジャミする#林鼓子 :あ゛あ゛わ゛がる゛ッ!!!!!!#森嶋優花 :合成で全部組み立てたhttps://t.co/I92ZmnMGnG
の3本です(・D・) pic.twitter.com/QkvYN6U7AI
林鼓子、『推し、燃ゆ』感想───推しとして、オタクとして。───
以下、らんがちゃんねる音声出張版05の林鼓子の発言の要約。
そうですね、推し、燃ゆ、ですね、前回の出張版でお話したんですけども〜、推し燃ゆはね〜最初はやっぱ衝撃だっ、たな〜。確かにその、推しが炎上したっていうことで、彼女はね、その主人公は推しのことを“自分の背骨”だと表現するんですけど、その、推しがさ、炎上して、推しがね、結局、引退しちゃうんですよ。それでこう、精神がぐらぐらしちゃう…。んだけど、それだけじゃないんですよ。彼女の葛藤って。彼女自身が、マイノリティなんだよね。そういう辛さも相まって、オタクが辛いってよりは、その子が辛くて、推し燃ゆはそういうところも共感性があるんじゃないかなって、すごい思ったなぁ。
→この本は主人公がオタクである以前に、主人公自身がマイノリティ(発達障害)であることの辛さに共感性がある(世間受け)している。
推しの影響力ってすごいんだなぁって思ってて…え、これネタバレしていい?10秒くらい飛ばしてほしいんですけど、
推しが最後引退会見でね、指輪をしているのよ。
うっわキッツと思って、その推しにムカついちゃったのね。
推しの幸せを願うのがオタク、だと思っているのね。
私の考え方だとね、推しは推しの人生を歩んでるから、別に?推しが幸せなら、私たちの前でキラキラしてくれたらそれでいい、という感覚なのね。
なんだけどね、さすがにそれはあかんやろって。普通に傷つかん?絶対やだ。最後の最後まで、会見してるまでは、アイドルとして、芸能人として人前にいる間は、最後まで貫いて欲しい、ファンの夢を壊さないでやめて欲しい。そこが一番イラッとした。傷つく。
なんか興味無いって感じがするじゃない、それが良くないって思ったし、
自分自身も、表に立つ人間として、人を悲しませるようなことだけはしたくない、ってとっても思った。
どっちの気持ちも分かるがゆえさ、お互いにさ、愛を持って接したい。
推しがいるってすごく楽しいじゃない。
推しに期待しすぎるのもよくないし、
自分自身に期待しすぎるのもよくない。
お互いに推しも充実して、自分自身も充実したLifeを送れるよう、自分自身のスタイルを身につけてほしい。
「俺はT.Oになるために積まなきゃ」とか、そんな事マジ考えなくていい。
皆はお互いに幸せな気持ちで、楽しく過ごせるのが一番の推し活だな、と思う。(拍手👏👏👏)
推しが少しでも、1%でも、この活動を楽しいって思っててほしい、って思うな。私は。
みんな快適に、悩まずに楽しみましょう。
聴いた???ねぇ、オタク、聴いた???
泣いたよ、私。
推しがさ、「お互いに幸せにな気持ちで楽しく過ごすのが一番の推し活だ」って、
そう言ったんだよ。泣くよね???今涙止まんないよ。
推しに期待しすぎるのもよくないし、
自分自身に期待しすぎるのもよくない。
ほんと、そうだよ。
はやまるの言葉を受けて、私の中で、言葉にしたい思いが2つ産まれた。
ひとつは「推しの幸せ」について。
もうひとつは、「オタクの幸せ」について。
推しの幸せ、つまり芸能人の幸せ、芸能活動と一個人の幸せについて、
これを描いてるの、『WUG』じゃないかと。「島田真夢じゃないか…!」って。
「誰かを幸せにするということ」の話じゃないかって。点と点が繋がった。
「推しの幸せ」───誰かを幸せにするということ───
「推しには幸せでいてほしい」そう語るはやまるの言葉はが、WUGの「誰かを幸せにすることには…」の話に、繋がるんじゃないか。はやまるの発言の中の「推し」を「島田真夢」に当てはめる。するとどうだろう、点と点が繋がるのではないか、ふとそう思った。
アニメの冒頭と最後と、常に問いかけてくる、印象的なこのセリフ。「誰かを幸せにするには、3つのタイプがあると思う」
そう、オタクが自分を大切にしながら推し活をするように、推しもまた、自身が幸せでいないと、誰かを幸せにできないことを、WUGは、島田真夢は教えてくれた。
推しの「アイドルだから〜しなきゃ」という意思と、オタクの「売上に貢献しなきゃ」という使命感。この2つは重く硬い錆び付いた鎖になって、お互いをお互いに縛り合い、不幸の沼へと沈み連れゆくと、そう思う。
「推しが少しでも、1%でも、この活動を楽しいって思っててほしい」ともはやまるは語る。
「WUGらしさ」にも繋がる言葉だとも思う。I-1clubとWUGの対比、何のためにアイドルをするのか、何のためにアイドルになったのか。売上のため?一番になるため?頂点に立つため?誰よりも正確に、誰よりも厳しく、その先に見えるものとは。誰かを幸せにするためでは無いだろうか。
島田真夢の言葉を借りれば、「誰かを幸せにするためには、まず自分自身が幸せでいなくちゃいけない。」
そうだ。だから、はやまるが言うように、推しの幸せを願う私たちが、推しに期待しすぎるのはよくないのだ。
こんな感じで私の中で半年かけて、やっとWUGが“完結”した。言い換えれば、キチンと“消化”できた。
お互いに期待しすぎるのもよくない、お互いに充実したLifeを送れるよう、自分自身のスタイルを身につけて欲しい、と。
もしこの言葉を、早志歩が、島田真夢に伝えたら ────、なんて想像したりもした。そんな新章の続きが…Run Girls, Run!の新章の物語があってもいい。
「オタクの幸せ」──そんなことマジで考えなくていい──
推し武道で描かれた、推すことの楽しさ、動機、きっかけ、手段、苦しさ、矛盾、思うようにいかないこと、推しや自分をよそと比べてしまうこと。
推しとオタク、それぞれの活動のものさしに他者への理解や、比較の尺度が介入すると、途端に幸福度をストレスが上回るような気がする。推し武道視聴して、よそはよそ推しは推し!って思ってたんだけど…
「俺はT.Oになるために積まなきゃとか、そんな事マジ考えなくていい。」
この一言で、ほんとふっ切れた。そうなんだよ、そう、これだよ。
自分自身のスタイルでさ、いいんだよ。全通したとかさ、現場にいる、いないとかさ、おまいつとかさ、ガチ勢とかさ、あるけどさ、いいんだよ!!!
そんな事マジ考えなくていいんだよ!!!
思うに、比較されるべき数字は実数(=積んだCDの枚数、参加した現地の数、時間)ではないのだと、思うんだよ。実数の比較では一見多ければ多いほど推しへの愛がより大きいと思われがちだが(もちろんほぼ100%正比例して大きいのは確実)だが、より正確には、自身の熱量のキャパの分配率の高さではないかと思うんだよ。
今自分が持てる熱量(金銭×時間)のうち、どれだけ多いキャパを捧げているか。それ以外の時間との比率。そのキャパシティが多ければ多いほど推しへの愛、依存度は高まる。確かに実数を積めば自然とキャパは埋まる。しかし年齢、家族構成など他人どうしではキャパの総量が違うため、単純なCD購入枚数を比較しても仕方ないのだ。
もし仮に独身30代男性が同じBlu-Rayを10枚詰んだとする。同じものを高校2年生の学生が1枚だけ買っていた、とする。単純な購入数量では、男性の方が“熱量がある”ように取られるだろう。しかし、学生は月1万円のお小遣いを必死にやりくりしていたたので、半年分貯めた貯金を使い果たして買っていた。方や男性は、複数のグループを応援していたり、その他趣味などもあるため、同じBlu-Rayをあと10枚買っても貯金に影響はない、としたらどうだろう。
自身のキャパシティのうちどれだけの分を占めているか、そのパーセンテージこそ熱量の数値化にもっとも近い指標ではないだろうか。
そうだよ、半年間、ずっとずっと悩んでた。ずっともやもやしてた。
Run Girls, Run!のことを好きになって、Run Girls, Run!のこと好きな人達の輪の中に入るようになってからというもの、初めてのことが沢山あって、それが分からないながらも楽しくて。でも距離感が少しずつ近づいてくるにつれて、距離感って近ければ近いだけでいいのかなって、思うようにもなった。適切な距離感ってあるんじゃないかと。
推しとオタクと、オタクとオタクどうしも。
その距離は今まさに、不器用ながら測りかねてる最中なんだけど…とにかくほんとに、ほんとに。いいんだよ。自分のスタイルで。
推しにそう言われて、涙が出るほど嬉しかった。
少しでも、1%でも、この活動を楽しいって思っててほしい。ほんとうにそう。Twitterだって、始めてくれてありがとうだよ、感謝だよ。もっとツイートしてくれないかな〜とかさ、思うけど、さ。
それ以上を求めるなんて罰当たりだよ。とか思うわけよ。
いや、全肯定オタクの自分の思考だからさ、それを人に押し付けるのも違うからさ、いいんだけどね、
とにかく、期待しすぎないのってほんとに大事なのよ、
おわりに。
推しも、最低限、私たちの前でキラキラしてくれればそれでいい、表に立つものとして、「最後まで貫いて欲しい」。
この言葉にさらに付け足すならば、それはオタク側も同じことなのだと、思う。
他界、推し変、それはもちろん自由だけど、やはり立つ鳥跡を濁さず、が優しさだと思う。
はやまるやあっちゃんが常々、「推し変はダメ!」とか「推し変は文化とか思ってるランナーさんは反省してください!」とか言う。
冗談のようにも感じるが、実際、Run Girls, Run!のオタクは半分かほぼ6〜7割は新陳代謝している感覚がある。どこもそうなのだろうけど。
2〜3年というのは、何か一つのことを続けるには長い時間だが、一人の人の環境が変わるには短すぎるくらいあっという間だ。
他に新しいことをみつけていくことに何も咎めるこどなどないと思うし、実際私もそれまで好きだったことに飽きて、新しい光を求めてここに来た。
それまでどう過ごしていたのか思い出せないほどに、今は楽しい。
オタクから直接別れを告げられることなど滅多にないとは思うが…それでも、最初の頃に接していた人や名前をしばらく聞かなくなった、なんて話は見に覚えがあるのだろう。(i☆Risでもそんなこと言ってた気がする。)
自分がもし別の何か新しい光を見つけた時には、その時はできる限りの優しさをもって、ここを離れることを約束したい。
その時まで、自分の距離感で、熱量で、幸せに過ごせるよう、がんばるよ。
おわり。
推し、燃ゆのもうひとつの側面、“生き辛さ”と“発達障害”については、思うところがあるので、またキチンとまとめようと思う。
一度衝動的に書きなぐった文はあるので、ちらっと覗いてみてほしい、です。
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