朝からポテチの【追いつきたいんだ】

ランナー1年生のRun Girls, Run!応援の活動備忘録です

「ボクは“フツウ”なのか?発達障害なのか?」“フツウ”は普通か、理想か。みんなどうかしてる。

「自分は“フツウ”なのだろうか?」

みんな一度は思うだろ。

私は多分、“フツウ”じゃない。

自分の行動を上手く制御できないときがある。

音楽を大人しく聞けない。

音楽を聞く時、カラダが、手が指が、足が、動いていないと、落ち着かない。

落ち着いて聴けないから、公共の場…つまり電車の中や人がいるところで音楽を聴けない。

ライブは好きだ。みんなが好きなように動くから。

でも、ライブの時も、みんなと同じように動かないといけない。

振りコピや合いの手、コールは揃っていると綺麗だし、楽しい。

それが出来ないとき、恥ずかしい。声が小さくなる。

だからコロナ禍で声の出せないイベントは、少し物足りない反面、

いつもよりも落ち着いてライブそのものを楽しめている気持ちもあった。

 

とにかく自分は、多分、“フツウ”ではない。

 

“フツウ”じゃないなら、発達障害なのか?アスペ?ADHDと診断されるのか?

それは分からない。

自分の周りや職場には、おそらく発達障害だけど、それを隠すか、

分かってはいるけどそれを否定して他の人と同じ生活をしようとがんばっている、苦しんでいる人がいる。

少し、その人の話がしたい。

発達障害の先輩

その人は50代の人だ。しかし、出世はしていない。お荷物と呼ばれる人だった。

自分は社会人2年目だった。周りから頼られていた。発言権があった。

机の掃除ができない人だった。資料が山のように積まれていて、データも整理されていなかった。

メモが散らばっていて、消しゴムのカスだらけだった。

自分は隣で、ことある事に必要な資料と要らない資料を捨てるように指示していた。

時には一緒に手取り足取り分別した。

周りの人は、「どっちが上司かわかんないな!」と笑った。

それがどうにも、辛そうだった。自分は褒められた。しかし、自分も辛かった。

できない事を、「できません」と言えない。他人に助けを求められない。

しかし得意なことはある。機械の修理やPC、Excelの関数などは得意だ。

困っていると、誰も呼んでいないのに、自分の仕事そっちのけで飛んできてくれる。

みなそれを嫌がるが、その人がいないとわからないこともたくさんあるのも事実だ。

典型的な発達障害の特徴。

普段の行いで負の貯金を貯めすぎてしまっているから、いいことをしても、それが霞む。

素直に褒めてくれる人はいない。それよりも自分の仕事をしろよ、と言われる。

わたしが同じことをしてトラブルを解決すれば、誰もがみな、若いのにすごいね、

と褒めてくれるのに。私はそうした褒められ方を嬉しく思わなかった。

その人たちを周りの人は馬鹿にした。迷惑にさえ考えてる。

それを見ていると、自分はこうはなりたくはないな、と思う。

「うまくやらなきゃな」、と。

同時に、自分には気持ちがわかるから、「優しく接したいな」そう思うようにもなった。

本を読んだり、かける言葉を調べたり、やってはいけない事、嫌がることを調べた。

だが私がいたのは去年まで。職場は2〜3年おきに異動を繰り返す。

いわゆるお荷物と呼ばれるそういう人たちは、他の人に比べ、あまり異動しない。

仕事が短期間で変わると、馴染めないうえに、仕事が定着しないからだ。

しかし、長くいることで、その人を叱れる人は少なくなる。

机も長年その人のものだから、モノが積まれて余計に片付かなくなる。

引き継ぎもしないからどんな仕事をどうやっているかわからない。

その人の仕事をどうやるか、次の人はおそらく分からないだろう。

ボクはどっちだ?

自分やその人が“フツウ”じゃないことは確かである。
じゃあ発達障害か?
そうであってほしいと思うと同時に、そうじゃない、と強く否定したい自分もいる。

自分はうまくやれていると。

きっとあの人もそうだろう。

自分はうまくやれている、自立できている。
相反する感情。わからない。

“普通”の人なんているのか?

この世には“普通”の人か、“発達障害”の人しかいないのか?

じゃあ、“普通”じゃない自分は、障害を持っているのか?

みんながそうなのか?“普通”じゃないなら、なんなんだ。


なんなんだ。

 

「それは個性、では?」

なるほど、個性。確かに。

みんな違うし、それぞれ性格も傾向も異なる。それは個性だ。

しかし、個性にも役に立つ個性と、そうでない個性がある。

人はそれを“健常”と“障害”、と定義する。

個性は必ずどこかで、“健常”と“障害”に線引きされる。

福祉的には必要な措置だ。助けを求めている人がいる。

目に見える障害なら尚更だ。しかし、脳の考え方や性格、

それらの多様な個性に“健常”と“障害”の二分論を当てはめられるのか。

個性に、優勢と劣勢などないはず、なんだ。ほんとうは。

 

ちょっとズレるけど。

「個性」っていう単語も出たので「僕のヒーローアカデミア」を引き合いに出したい

「ヒロアカ」でいう「個性」は、主に身体に発生する超人的な能力のことだ。

しかし、個性に線引きをするという描写は、

ヒーローとヴィランの違い、とも取れるように考える。

ヒーローは自身の個性を世のため人のために使う。

ヴィランは己の欲のために暴れ、社会や人に迷惑や被害を与える。

そこに差があるというのだとすれば、それは“振る舞い”の善悪、だろう。

「個性」そのものに善悪の概念はない。力に善悪は伴わないから。

銃が悪いんじゃない、酒が悪いんじゃない。それを扱う人に善悪は委ねられる。

同時に、健常者と障害者の“個性”の線引きを明確に言語化するならば、

それは“振る舞い”と等しく、社会に“貢献”するか、“迷惑”をかけるか…

そこに境界線があるのだろうか。

 

(さらにちょっとズレるけど)

社会、って、なんだろうか。概念として大きすぎて捉えきれないが、

より身近な社会は、公共の場がわかりやすいだろうか。

そこは皆に合わせる場所。とても息苦しい。

空気を読む。まるでアビスの力場を読むように。

下手に動けば、アビスの呪い…上昇負荷に耐えられず、

めまいや幻覚、人間性を喪失し、死に至る。(「メイドインアビス」より)

これは何も漫画の世界の設定には限らないのではないだろうか。

電車の中や、エレベーターの密室の中。病院、教室。

人が静寂を保つ場には、強い圧迫感や緊張が張り詰める。

そこで“振る舞い”を間違え、“個性”を出そうものなら、

それはその社会において“迷惑”であり、おそらく一発で“そういう人”扱いだ。

この10年、15年末のほどだろうか。

SNSの普及により、そうした身近な迷惑が目立つ時、多くの人の目に拡散されるようになった。

地下鉄で歌ったり騒いだりする外国人の動画。

日本ではおよそ発達障害扱いだろう。

“そういう人なんだな”とすぐに判断される。

自分に害がなければみなじっと耐えて我慢する。

たまに相手に害をなす行動に出る人に出くわせば、逃げるか、トラブルを起こしてカメラを回すか…

“力場”にあわせて“振る舞う”ことができるか、否か。境界はそこにある。皆、その境界を跨がぬよう、

力場の流れに干渉しないように、息を張りつめている。息苦しさ。

おそらくムラ社会で妖怪、異端扱いされた人たちも境界を跨いだ類なのだろう。

…話が逸れた。

調べてみる。

[普通 理想] 検索

興味を引く記事がいくつかあった。

「普通」と「理想」 - インターネットの備忘録

はせおやさい@hase0831 さんのブログ

よくよくその「普通」を考えてみたときに、それってつまり「理想」の人のことなんじゃないか、
と気付いたのは、「自分の普通は相手の普通ではないのではないか」ということでした。

 

相手に「普通」を求めるとき、自分ではさほど強要しているつもりはなくっても
知らず知らずのうちに自分の「理想」を押し付けていたのかもしれないなーと思いました。

なぜ理想を普通と錯覚してしまうのか

はてな匿名ダイアリーより
■なぜ理想を普通と錯覚してしまうのか
ドリームファイターの定理
恋愛的に釣り合うと思う男と結婚できる確率 = (当該男の生涯結婚回数の期待値)/(当該男の生涯交際人数の期待値)

世の中に「普通」等存在しない、存在するのは唯一「理想」だけ - 何気ない記録

SiN(sin20× ×)さん

世の中に「普通」等存在しない、存在するのは唯一「理想」だけ

結局のところ「普通」とは、自分にとっての「理想」に過ぎない。

なるほどやはり、同じ考えを持つ人はいるらしい。

しかし、普通と理想の二元論の話はどうしても恋愛話に方向が進むらしい。

発達障害の文脈にあまり“理想”という単語がでてこないからだろうか。とても参考になった。

普通と理想、やはりこの単語に関連がある。

 

“フツウ”は“普通”じゃなく、“理想”

どうやら、自分が使っている言葉の持つ意味と、その言葉に込める意味が違っているようだ。

こういう時は別の言語に助けを求めてみる。

英訳してみよう。

いわゆる頭の中で意識して使用している「普通」は直訳すれば、

「usually」もしくは「ordinary」だ。

普通。普段。

しかし、今自分が掴みかけてる概念、もしくは多くの人がその言葉を使う時に無意識下で「フツウ」に込める意味で、最も近いものは?

「ideal」、「理想」だ。

これは先の恋愛論でのすれ違いにも通ずる。日常的に使っているこの言葉に落とし穴があったんだ。この日本語のパラドックスというか、

私たちが普段使っている言葉に含まれる意味の認識と、無意識で使っている単語に込めた意味の乖離は大きく問題だ。

正義と“セイギ”とかは勧善懲悪をテーマにした作品で腐るほど扱われてきた。その解釈は少しづつ修正されつつある。

しかしまだ、“フツウ”に根強く遺る違和感は誰も指摘しない。気づいていない。

“フツウ”を紐解く

じゃあ皆が言う“フツウ”ってなんなんだよと。

答えはでている。

日本人のいう“フツウ”=理想ってのは例えるならば、
ドーナツの中心の穴…実際には存在しえない穴に向かっている状態だと考える。
みんながドーナツの上に立って、ドーナツの中心に向かっている。

外側の人から見たときに、中心に近い人ほど“フツウ”だと言われている。

中心に近づく方法は様々だ。

学歴、集団生活、就職、結婚、子育て、貯金……

みな、中心に向かって歩く。自分より“フツウ”の人しか視界にはいない。

自分が一番“フツウ”じゃないと思う。

だがしかし、前にいる人もまた、自分よりも“フツウ”な人の背中を見て、より“フツウ”でいなければ、そうやって人生を“フツウ”に費やす。

しかし、どれだけ近づいても“フツウの人”は存在しない。ドーナツの中心は空洞だからだ。

そこには“フツウでありたい人”がいるだけだ。その人たちは脇目も振らずに中心へ向かう。

しかし、中心を向けない人もいる。
中心を向けない人のことを、中心を向いている“フツウでありたい人”たちは、発達障害ADHDと呼ぶ。


どうかしてる。

 

中心へ向かうことがそんなに大切なのだろうか。

それが生きる理由になるのか、目的になるのか。

そう否定したくなる。馬鹿馬鹿しい。

しかし同時に、私は中心に向かって歩いてきた。

誰よりも真っ直ぐ、間違えず、中心に歩いた。

歩きながら、中心に向けられない時があった。

きっと他の人もそうなのだろう。中心に向かって歩きたいのに、それができない。

自分ではどうしようもできない衝動、傾向、性格、思考。それが障害なんだ。

ボクはどっちでいたいんだ

自分が“フツウ”=ドーナツの穴に向かっていない人だということは、自覚している。

しかし一方で、ドーナツの穴に向かっていたいという気持ちもある。

いやむしろ、発達障害と診断された人達も、別に好きで穴の方向を向いていないのではないのかもしれない。

みんなが皆同じ理想…“フツウ”というドーナツの穴の中心…

ありもしない理想を求めなくてもいい社会に産まれたい。

私はみんなといっしょになりたい。

みんながバラバラの方向を向いている社会で。

分かり合えないことを、分かちあった社会で。

 

おわり。

 

書きながら思う。今日みたいな日は脳の余計なところが働いてダメだ、つまんないことばかり考える。

今、25:35分。さっさと寝たい。この時の自分、今、思考に酔ってる。自分に、酔ってる。

 

このブログを書くに至ったきっかけの動画を、ここに。

 


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溢れる感想待ってます、全部受け止めます。

marshmallow-qa.com

参考ブログ

「普通」と「理想」 - インターネットの備忘録

なぜ理想を普通と錯覚してしまうのか

世の中に「普通」等存在しない、存在するのは唯一「理想」だけ - 何気ない記録